維摩詰言。従癡有愛則我病生。以一切衆生病是故我病。若一切衆生病滅則我病滅。・・・・・・・

精神科医長 朱雀五十四

これは大乗仏教経典の「維摩経」の一部です。維摩経は聖徳太子が著わした三経義疏のうちの一つにもある有名なものです。話の内容としては仏教の在家信者である維摩居士が病気になったと聞き、菩薩たちがその見舞いに行ったときの話です。菩薩たちが「あなたはどうして病気になったのですか?」と維摩居士に質問した時、彼は上記のように答えたのです。意訳をすると「愚かさ(癡)のために、私には執着(愛)する心があります。そのため私は病気になったのです。この世の生きとし生けるもの(一切衆生)が病気になるから、私も病気になるのです。もしすべての生きとし生けるものが病気になることがなくなれば、そのとき私の病気もなくなるでしょう・・・」と述べています。私はここに「医療の原点」があるのでは?と思えるのです。たとえば母親は自分の子供が病気になった時には、子供の病気が治る事を願って心配のあまり母親はすでに病気になっています。つまり、「他者が病むから私も病む」のです。これはキリスト教的な「自己犠牲」の精神ではありません。そもそも仏教では自・他の対立・区別はありません。それゆえ他者の痛みは自分自身の痛みとなりうるのです。同じことを弘法大師空海は万燈万華の願文に「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん」と記しています。意訳をすれば、「この世が存在する限り、またすべての生きとし生けるものが存在する限り、私の衆生救済の願いは尽きない」というのです。ここには大乗仏教の崇高さがあり、また菩薩行の極致が示されています。そして空海のもつ慈悲の心の大きさに圧倒され、私はおもわず涙が出そうになります。

「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん」

さらにまた、他者が病むから「私も病む」とは、他者に「寄り添う」ということであり、他者を上から見るのではなく、他者と「同じ目線」になり寄り添うということです。特に、私たちの精神科医療や終末期の医療では文字どおり「寄り添う」ことしかできないことがあります。たとえば精神科では5年、10年と患者に寄り添い見守り、卵からヒナがかえるのを待つように患者の人格の成熟や、意識の深化・発達を待たざるを得ない場合もあるのです。そして結果、治療者も「病む」ことになります。他者の「病」をこの身に引き受ける覚悟。それも治療です。

私たち日本人は古来から、古代神道をベースに自然界のあらゆるものに霊性や神の存在を感じ、自然を畏れ敬い、いのちを慈しみ、慈悲のこころを持って他者に接するような基層文化をもっていました。それは日本人が狭い島国の森林に住んでおり、お互いが助けあい、個人の欲望を抑制しながらも充足しあうために「和をもって貴しとなす」という精神性を仏教に求めた結果です。一方、砂漠の民の宗教であるイスラムやユダヤ教はもちろん、キリスト教も「啓示宗教」といわれています。「啓示宗教」とは私たちの上方にいる神の声を聞き、その言葉を信じ、その教え(啓示)に従うというものです。それゆえ他の神の存在は認めず、テロリスト集団「イスラム国」のように自分達の信仰以外のものの価値は認めない原理主義的になりがちです。それに対して「悟りの宗教」ともいわれる仏教は、自分自身が精進して悟りをひらき、菩薩や仏に近づこうとする宗教です。この両者の違いは極論すれば、イスラムやユダヤ教、キリスト教のように「神に愛される」人間になるのか、あるいは仏教のように「人を愛する」菩薩や仏になるのか、という違いでもあるのです。

私たち日本人の基層文化には神道・儒教・仏教などが融合しており、それが日本独自の「お国柄」ともなっています。「衆生が病むから私も病む」。この大乗仏教の菩薩行の精神を基にした医療活動こそ、科学至上主義であり、カネやモノを追求することに最大の価値をおいている現在の日本においては必要とされているのかもしれません。


(白帝ニュース平成27年5月)


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