身体の痛みとこころの痛み
副理事長 高沢 悟

最近のニュースで、国は在宅医療の促進を進めていると云う話題がよく出てきます。病院の機能分化を進めて、急性期、亜急性期を過ぎたら出来るだけ住み慣れた我が家で療養が出来るように制度や体制を整えて行くという方針です。この方向性の背景には、医学の進歩、特に「疼痛管理」の飛躍的な進歩があるようです。以前は手術治療やがんなどの悪性腫瘍の治療には必ず激しい痛みが伴い入院治療を余儀なくされていました。ところが今では持続性硬膜外麻酔などを用いることで術後疼痛は激減し、手術の翌日からリハビリが始められますし、がん性疼痛も様々な疼痛コントロール技術の進歩により外来治療が殆どで、緩和ケアでも在宅の比率が増して、全体的には殆ど痛みに苦しむことは無いと云ってよい程になりました。しかし、痛みの発生機序の研究が進み様々な薬剤が開発される一方で、人類の歴史とともに存在している「痛み」という現象はまだまだ謎の多いままです。米国では2001年から2010年までの10年間を「痛みの10年」と位置付け、国家プロジェクトとして痛みの解明と治療に取り組み、その莫大な経済的損失の軽減を課題としました。疼痛には外傷などの侵害受容性疼痛が占める急性疼痛と、組織損傷などの治癒した後も持続する慢性疼痛があります。がん性疼痛などは両者の混合が多いと云われますが、数ヶ月以上の痛みが持続する慢性疼痛に苦しむ方は我が国では現在2000万人以上に及び、高齢化や医学の進歩に伴い更に増加傾向にあります。これは国民総生産にも影響を与えていると考えられており、健康寿命と生命寿命の格差が7-8年もある現在では介護期間に関わる経済的問題ともなって社会問題となりつつあります。
興味深いのは、これだけ歴史が長く多くの痛みに苦しむ人が多いにも関わらず、痛みの検査というものは未だに数える程しかないことです。量的評価表としてVAS(visual analogue scale)とNRS(numerical rating scale )が、また痛みを持つ方に記入して頂くマギル痛み質問表などの多元的評価法が知られていますが、いずれもご本人の申告によるものです。最近では検査器具を使った評価法としてニューロメーター®(知覚電流閾値測定器)や当院でも使用しているPain Vision®(痛み測定期)が開発され痛みの客観評価が可能にはなりましたが、まだ血液検査のような客観的数値化が可能な訳ではありません。多くの画像診断はあくまで痛みの原因を推定するものですし、fMRIや脳磁図、MRSなどは研究段階のもので個別の診断に使用できるものではありません。PETやSPECTなどの検査では慢性疼痛での所見は報告されていますがこれも一般的とはいえません。早い話が痛みを測定できる方法は、現代の医学ではまだ無いと云った方がいい状態なのです。すべての医療機関に受診する方の4割以上の方が「痛み」を訴えているにも関わらず、未だ痛みの原因や診断などは解明されていない状態です。
精神科というと身体の痛みとは無縁な印象かも知れませんが、実は多くのうつ病や精神科疾患でも痛みの訴えは多く見られますし、整形外科や内科等で原因が分からない痛みとして紹介されて精神科に受診する方は案外多いのです。慢性疼痛と云われる病態(症状)は、痛みそのものと云うよりも、痛みの感情の記憶や2次的に起きた神経系の障害で痛みの信号が発生し続けているようなメカニズムで起きているため、どんなに鎮痛剤を使っても湿布を貼っても一時的な効果しか無く、むしろ鎮痛剤の依存症を作ってしまいます。慢性の痛みの多くは鎮痛剤は無効で、痛みの下降制御系と云われる青斑核ノルアドレナリン系と縫線核セロトニン系の障害が関与して、知覚の求心経路である侵襲受容体系だけでなく、負情動関連領域や脳内報酬系などを巻き込んだ神経ネットワーク全体の障害を引き起こしていると考えられています。こういった病態に対する中枢系の治療薬、抗うつ薬や抗けいれん薬は精神科医が使い慣れていますし、情動が関与している場合は心理社会的アプローチが有効である場合があります。急性疼痛と慢性疼痛の治療方針の大きな違いは、「痛みを消そうとする」痛み随伴性サポートではなく「痛みがあってもその人らしい生活を支援する」社会的サポートを行うことです。人は痛みを何らかの危険信号として情報処理し自分の行動の決定に役立てますが、慢性化した痛みはいわば「この痛みは何なのか」という意味付けが出来ないときに、不快な情動として記憶され残存します。これは、あのときこういった事故があったから、といった単純なストリーではなく、なぜ自分が事故に遭わなくてはならなかったのかといった、「物語り化できない経験に対する痛み」として残ると考えられています。わたしたちが何か傷を負い神経系を含む肉体に可塑的変化を生じる、その変化が身体図式の一部として物語り化できない、意味付けができないとき、「痛み」は文脈を失って症状化・慢性化して行くのです。痛みに集中すればする程、この痛みに対して自分はどうすることもできない、この痛みがある限り自分は幸福になれない、と云った「破局的思考」に陥って行くことになります。実はこの思考回路が慢性疼痛のリスクファクターと云われていますが、それに対して様々な心理社会的治療や一見痛み自体の治療から離れるような薬物治療が効果を発揮する訳です。
痛みは侵害受容性疼痛、神経障害性疼痛、心因性疼痛に分類されていますが、精神科では更にスピリチュアル・ペインという実存的痛みというものを加えています。デカルト以降、科学は身体とこころという二元論を前提に発達してきました。痛みは第5のバイタルサインと云われる程に身体的なものではありますが、実は痛みは身体という劇場で営まれるこころのドラマでもあるのです。哲学の領域でも、他者の痛みを知ることの可能性は大きな問題でした。これは、他者の痛みと自分の痛みは同一であるのか、痛みを理解することは言語のような社会的規範に基づくのか、それとも痛みは個人的体験として(存在レベルでは)最後まで到達できないものなのか、と云った議論が今でも続いています。最近の脳科学では、痛みの画像を提示すると、実際には痛み刺激を与えていないにもかかわらず自分が痛みを感じる脳部位と同じ部位の活性が出現することが証明されました。これは恐怖に伴う脳の活動(扁桃体の活動亢進)とは異なるパターンであることが知られていて、痛みの共感の背景には脳の活動という生物的基盤があることの証明と考えられています。また、ヨガの達人に痛み刺激を与える実験では、瞑想状態にある達人は下降制御系に関連した部位である前頭、頭頂、中脳の活動亢進が見られ、痛みを感じにくくなっていることが解りました。当院でも行っているマインドフルネス認知療法は、ヨガなどの瞑想法を取り入れた新世代の認知行動療法として痛みの治療としても多くのエビデンスがある治療法です。慢性の痛みは脳科学と医学、そして人間存在の本質を問うことまでも含む興味深いテーマといえるのです。

(白帝ニュース平成26年8月)


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