「手を打てば 鯉はえさと聞き 鳥は逃げ 
女中は茶と聞く 猿沢の池」

精神科医長 朱雀 五十四

この歌は詠み人知らずですが、唯識道の有名な歌であり、奈良興福寺にある猿沢池のほとりでの出来事です。誰かが手を「パン、パン」と打ちます。すると鯉はこれまでの習慣から餌がもらえるものと思い、岸辺に寄ってきます。また、近くにいた鳥は鉄砲にも似たその音に驚き、飛び去ります。さらに近くにある旅館では、女中は客が自分を呼んでいるものと思い、大きな声で「はーい」と返事をする。そのような情景が目に浮かびます。つまり、この歌は同じひとつの出来事・物事であってもそれを受け取るものの立場が違えば、とらえ方が異なることを示しています。また手を叩いた音そのものには絶対的な意味はなく、音と自分との関係性(≒縁)の中でしか、その音自体も意味をなさない、という考えを示しています。これは極めて仏教的なとらえ方であり、さらには客体=聞かれるもの(手を叩いた音)があるから主体=聞くもの(鯉、鳥、女中)が在る、いう唯識学的なとらえ方ともいえます。またS・フロイトから分かれた心理学者のA・アドラーも同じように「人は自分が意味づけした世界に生きている」と述べています。現在の臨床心理学は西洋から始まり、とくに「深層心理学」はフロイトから始まったといっても過言ではありません。しかし仏教も古くから「こころ」を見つめてきました。たとえば1890年代にフロイトが「無意識」を発見(?)し、また無意識から人間の心理構造を考え始めた時、それよりもはるか1500年以上も前に、仏教の唯識瑜伽行派ではすでに五感と意識(第6識)の下層に第7識としてマヤ識を、さらに深層の第8識にアラヤ識として無意識層を発見し、またそれらの役割なども明らかにしていたのです。このように仏教は人の「こころ」と深く関わってきました。しかし今や仏教は葬式のための宗教となり、また宗教教育そのものも戦後一貫して公教育の場から排除されてきました。さらにあのオウム真理教の事件以来、仏教・密教あるいは宗教などという言葉自体が社会的に「禁句」扱いにもされています。しかし、「人類の文明で宗教のない文明はない」のも事実であり、また宗教に裏打ちされた道徳がなければ、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中での「親殺し」でさえも正当化されることになってしまいます。
私たちの精神科病院には「ある種の悩み」を持って患者さんが訪れます。そしてその「悩み」の種類は大きくふたつに分けることができます。大部分の患者さんの悩みは「私⇔あなた⇔上司⇔会社⇔・・・」と続く水平面方向(横軸)での悩み、つまりは人間関係の悩みであり、適応の問題だともいえます。そして極論すればもし宝くじで10億円当たれば解決してしまうような悩みも含まれています。しかし他方、少数ですがまた別の悩みをもって受診される患者さんもいます。それは垂直方向(縦軸)での悩みを持った患者さんです。「自分はいったい何者なのか?」「なぜ、私は生きているのか?」という自己の存在理由を問う悩みです。このような悩み・苦痛は癌などの終末期医療などにおいてもみられ、スピリチュアルな問題といわれています。そしてこのような悩みは文学、哲学、宗教などが扱う領域となります。自分の上方に超越的な存在者(神や仏)やsomething great(サムシング・グレート=なにか偉大なもの)を求め、下方には「内なる自己」をみつめる、という構造になります。それゆえこれは極めて宗教的な問題であり、とうてい「宝くじの当選」などでは解決はできません。しかも残念ながら、この悩み・苦痛に対する正しい解答といったものもありません。当然のことながら私も具体的な解決手段は持ち合わせていません。ただできることといえば、じっと傍にいてその悩みを共有していく事ぐらいです。
最後にS・フロイトから始まりC・Gユング、…C・Rロジャース、…K・ウィルバーと連綿と続く現代西洋心理学の系図からいったん離れて、日本に伝わってから1500年以上も続く仏教という視点から「こころ」の問題をとらえていくという方法(たとえそれが体系的ではないとしても)もこれまで西洋思想一辺倒であった日本人には案外ふさわしい方法かもしれません。明治時代に「Liberty(リバティー)」を「自由」と「誤訳」してしまい、それ以来単なるわがままや身勝手さ、までも「個人の自由」だと勘違いしている現在の若者たちのためにも・・・。

<追記>私自身は宗教を信頼していますが、今のところ「信仰」はしていません。

(白帝ニュース平成26年3月)


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